高橋尚子の走りは緻密な理論の結晶だった!
武井壮さんと高橋尚子さんの対談の動画の紹介です。
高橋尚子さんの走りについて改めて調査していたところ、この動画を見つけました。この対談を通して、高橋尚子さん自身の視点から、彼女のランニングについて多くの話を聞くことができました。
武井壮さんは、十種競技の元チャンピオンでもあるため、質問が非常に的を射ています。さらに、同世代であることから、過去の話題においても、ご自身の体験を踏まえた具体的な問いかけとなっており、それによって多くの言葉を引き出せているのです。
私が特に驚いたのは、高橋尚子さんの走りが、意識的に理論的に構築されたものであったという事実です。高橋尚子さんの練習量が常軌を逸していたことは周知の事実ですが、この事実はあまり知られていないのではないでしょうか。私は高橋尚子さんという才能が、他者とは異なる走り方を自然に体得したのだと考えていました。
ピッチ走法への転換と特徴的なフォーム
高橋尚子さんといえば、腕を抱え込んで小さく横に振る、特徴的な腕の振りが思い浮かびます。大学時代のある時期までは、よりストライド重視の走り方をしていたそうです。しかし、ある時から、ピッチ走法の方が脚への負担が小さいことに気付き、それを洗練させていきました。脚の入れ替えを速くするため、腕を折りたたみ、周期の短い腕振りを実現したのです。ご本人は「単に脚のリズムに合わせてバランスを取っているだけ」と表現していましたが、それは明らかに、意識的かつ理論的に作り上げられた動きでした。
また、高橋尚子さんの脚の動きも非常に特徴的です。離地した足が跳ね上がらないのです。東アフリカ系の選手では、足が離地した後、お尻に着くほど脚が跳ね上がるのが一般的ですが、高橋尚子さんの場合、ふくらはぎが地面と平行になる程度にしか上がりません。見た目には小さな脚の動きで、1キロ3分20秒の速度を維持しているのです。私は当時からそれを不思議に思っていましたが、その謎も、少なくとも一部は明らかになりました。
勝負を決める「ロケットスパート」と省エネ戦略
高橋尚子さんの走りには、もう一つの特徴、「ロケットスパート」があります。勝負所になると一気に加速し、ライバルを置き去りにし、あっという間に数十メートルの差をつけてしまいます。それまで何十キロメートルも並走していた相手を、突然“ぶっちぎる”のです。この一撃必殺のスパートに対し、本人は「レースのために準備された100のエネルギーのうち30を使う」と表現しています。それほどまでに消耗するのです。したがって、この30のエネルギーを捻出するためには、それ以外の場面で脚を消耗しないことが戦略上、必須条件になります。
その結果として、彼女は「脚をできるだけ長時間接地させる方が良い」という結論にたどり着きました。地面を短時間に強く蹴るのではなく、弱い力でも長く押し続ければ十分だという考えです。スパート時に地面を蹴るため、それ以外の場面では、極力蹴る動作を控えるようにしたのです。これは、いわゆる「重力ランニング」と同じ方向性を持つ走法に行き着いたことになります。ただし、高橋尚子さん自身は、地面を蹴らないこの走り方を、主たる走行技術とは捉えていません。あくまで、スパートのための補助的な技術として位置付けているのです。実際、重力ランニングを実現するだけでは、世界レベルの勝負に勝つのは難しく、彼女にとってはスパートこそが最大の武器だったのでしょう。
余談ですが、2000年頃は薄底のシューズが主流だったため、上述のような走りの結論に至る背景を後押ししたようです。現在は厚底シューズが主流になっており、また違った判断がされるかもしれません。
腕と脚の同期に見る身体意識
極めつけは、腕の振りと脚の運びの同期に関する考察です。高橋尚子さんは、腕振りをわずかに先行させることに気付いていました。物理学的な説明こそありませんでしたが、感覚的に「地面を蹴るとき」と「蹴らないとき」で腕振りのタイミングが異なることを明確に意識し、使い分けていたのです。
「蹴る」という行為は、ランニングを連続した跳躍とみなしていることの現れであると、私は考えています。跳躍とは、その一歩で得られる身体重心の加速を最大化する行為であり、その究極の形が走り幅跳びです。ランニングにおいて「蹴る」とは、全行程を跳躍でカバーするのに必要な労力を歩数で割り、その一歩一歩で最大化を図る行為です。
本来のランニング(すなわち重力ランニング)では、蹴る動作を一切行いません。高橋尚子さんが表現したように、「一歩で運ぶ」のではなく、「身体重心の前進に伴い、その継続に必要な最小限の仕事を脚で行う」だけです。
両者を実現するために必要な腕の役割も異なります。前者(連続跳躍)では、身体重心を斜め上前方に加速させるための「重し」として、同じ方向に加速します。これは、バレーボールの選手がアタックの際に腕を下から上に振り上げる動作に似ています。足が接地している時間に腕を前方に振り、離地までに腕自身の速度を最大化します。
一方、後者(重力ランニング)では、身体重心を加速させる必要はなく、加速すべきは「足」そのものです。足が地面に接する前に、身体重心から見て後方へ加速されるように位置づけます。これは、着地の瞬間に身体重心の減速を最小限にとどめるためです。
腕を前に振ると、その反作用で脚が後ろに動きます。これが、足を後方に加速させる原理です。したがって、着地の前に腕を前方に振り出す必要があります。腕が最も速く前進しているときに、脚も最も速く後方へ進みます。そのタイミングで足を接地させるのです。腕の前方への速度を最大化させるタイミングは、走り方によって異なってくるということです。
この点に関しては、別の記事で詳解しようと考えています。