小林香菜選手へ伝えたい言葉──もう1つの夢に踏み出せ!
ピッチ走法の代表例を探している途中で、小林香菜選手の存在を知ったのは恥ずかしながら、彼女が世界陸上の日本代表に選ばれる直前くらいの時期でした。走りの動画を見てみると、なるほど、超が付くほどのハイピッチで、しかし、速そうには見えない小柄なランナーと言った印象でした。そのときに、以下の記事を読み、経歴にも興味を持ちました。
https://number.bunshun.jp/articles/-/864870
その後、世界陸上の代表に選ばれ、さらに、世界陸上の舞台で7位入賞を果たしました。私の視点から見ると、注目した選手が期待通りに結果を出した、という出来事なのです。ランナーとしての順調なキャリア形成の序盤にあるように見える彼女ですが、私は次のステップに進んでほしいと考えています。
最大酸素摂取量は、短期間で掘り起こされる
マラソンにおける身体的な資質のひとつに、最大酸素摂取量という指標があります。これは、持久力や心肺機能の根幹を成すものであり、トレーニングによって引き出される「才能」の代表格です。ただし、この能力は、長年かけて育てるというよりも、もともと備わっていた機能を呼び覚ます性質のものです。つまり、眠っていた機能にスイッチを入れることで、比較的短期間でその人の限界値に近づくことができます。
もちろん、すべての才能が短期間で掘り起こせるわけではありません。技術的な習得や戦術的な理解には、長い時間と経験が必要です。サッカーであれば、半年の経験では、どれだけ計画的に練習をしたとしても、10年選手に追いつくことはできません。それは、技術的・戦術的な理解に必要なプレー時間が絶対的に不足しているからです。
しかし、マラソンにおいて最大酸素摂取量という資質は、比較的短期間でその限界が見えるものです。小林香菜選手は、すでに1年半を実業団で過ごしています。この期間に、サークル活動の延長からアスリートとしての本格的なトレーニングへと移行し、大きく成長できた貴重な時間でした。そして、その成長は、彼女の身体に備わっていた資質が短期間で引き出された結果であると考えられます。
小林選手は、大学3年時に自主練習だけで、大阪国際女子マラソンを2時間38分で走り切っています。言うまでもなく最大酸素摂取量という点で優れた資質を持っていたのであり、実業団に入ってからその事実が一般人に知られるところとなりました。しかし、スイッチはすでに入ってしまったのです。世界陸上に向けた最大酸素摂取量の最大化は、世界陸上代表合宿において、日本マラソン界の蓄積されたノウハウを活用して行われたに違いありません。これからの1年間で、これまでと同じような成長は見込めないと、彼女自身も理解しているはずです。私は、彼女の最大酸素摂取量はほぼすべて掘り出されたと見ています。
完成された走法と暑熱環境への適応力
それ以外の伸びしろとしては、ランニングフォームの効率化とレース経験の蓄積が挙げられます。
小林香菜選手のランニングフォームの特徴は、言うまでもなくハイピッチです。ハイピッチは手段であって目的ではありませんが、彼女の走りにおいては極めて重要な要素です。上下動が少なく、足腰へのダメージが小さいため、後半に強い走りが可能になります。ハイピッチを維持しながら42.195kmを走り切ることができるのが、彼女の最大の特徴です。つまり、彼女の才能の核となるのは、ハイピッチを維持できる集中力なのです。ピッチ走法によって走行中の上下動を抑えるという点において、彼女の走りはすでに完成されています。世界陸上のマラソンの動画を見ても、他の選手に比べて上下動が圧倒的に少なく、競歩のように見えるほどです。
それに加えて、小柄な体格が42.195kmを走り切るために要求されるエネルギー量を小さくしています。したがって、レース後半のエネルギー切れに陥りません。ハイピッチであれば、必然的にストライドは短くなりますから、小柄な体格が制約になりません。ハイピッチ走法が彼女の体格と相まって「後半に強い」という特長を作り出しているのです。
一方で、その走り方のままでは、彼女の身長ではスピードが上がりません。もしストライドを大きく取り始めたら、彼女の強みは消えてしまうでしょう。その意味で、低速を強いられる暑熱下でのレースは、彼女にとって有利な条件です。
東京世界陸上は、すべてが噛み合った舞台だった
世界陸上が東京で開催されたことは、彼女にとって大きな追い風でした。それは地元開催だから応援が多いということだけではなく、9月でも高温多湿というマラソンに不適な気候が、彼女にとっては最適だったからです。この環境では、誰もがスピードを落とさざるを得ません。実際、世界陸上でもペースは遅くなりました。このレースは、スピードよりも暑さに対する耐性を競うものとなったのです。
小林香菜選手は、国内選考レースの大阪国際女子マラソン(2025年1月)でも、似たようなレース展開において成功体験を持っています。本質的にはレース経験が不足している彼女ですが、直接的に参照できるレース経験があったことで、弱点が露呈せずに済みました。むしろ、成功体験をもとに希望を持って走り続けることができたのだと思います。
このように、すべての要素が噛み合って、世界陸上7位という業績を短期間のうちに成し遂げたのです。このうち1つでも欠けていたら、入賞は果たせなかったでしょう。
走り終えた先にある、もう一つの夢
冒頭に紹介した記事に書いてあった通り、小林香菜選手は、大学を卒業するに当たって、マラソンを続けるか、国家公務員になるかで迷っていたそうです。今の日本にとって、彼女のようなスター性と知性を兼ね備えた人物が行政に関わることは、意義深いことだと思います。ご存じの通り、日本では政策は実質的に政治家ではなく官僚が決めています。元世界陸上7位のランナーであり、才色兼備の彼女が官僚として奮闘する姿は、ニュースでも取り上げられるでしょう。そして、実務経験を積んだら、政界へと進出してほしいと願っています。
世界で最も進んだ高齢化社会、そして、通貨の老化(国債発行残高の積み上がり)という喫緊の課題を抱えるこの国で、官僚を志す若者がいること自体が貴重です。それはきっと、日本を救いたいという思いがあるからでしょう。その思いを実行に移すならば、今がその好機です。高橋尚子さんのようにオリンピックで金メダルを取れば、日本国民の心に勇気を与えることはできます。しかし、それだけでは日本社会の抱える問題の解決にはつながりません。今の日本を変えるには、世界一のアスリートではなく、有能かつ有名な政治家が必要です。有能なだけでは、一般の有権者から十分な支持を得ることは難しく、逆に有名なだけでは、票を集められても社会を良くする力にはなりません。小林香菜選手は、その両方を兼ね備えた稀有な人材です。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」とは言いますが、マラソンで一定以上の成果を収めた現在、一匹の兎は捕らえたと言って良いと考えるのは私だけでしょうか。まだ、彼女の意志がそこにあるのであれば、まだ十分に若い今のうちに官僚としてのキャリアを始めるべきです。いや、始めてほしいと切に願います。国家公務員総合職試験の受験資格は30歳までですが、そこまで待つ必要はありません。世界陸上7位入賞という箔を活かして、さっそうともう一つの夢へとハイピッチで踏み出してほしいのです。
どこにでもいる凡庸な市民ランナーの一人として、日本を変えることのできない群衆の一人として、才能に恵まれた若者に対する私からの期待です。