速さを捨てて見える景色 ― 長距離走が教えてくれる選択の哲学
平日は、昼休みの1時間のうちに約5 kmを走り、昼食を取り、着替えもしなければなりません。それもあって、全力とは言いませんが、1キロ4分ちょっとのペースで走っています。これは自分にとっては無理はないものの、速く走っている意識はあるというペースです。レース時よりも少し遅いくらいと言えます。
昨日(土曜日)は、仕事が休みでしたが、やや身体が重く感じられたので、久しぶりにゆっくり走りました。10 kmです。そもそも速く走るということを諦め、途中でやめたくなったらやめるという、心許ない心意気で走り始めて、何とか10 kmまで走ったのです。
「楽に走る」ことの意味と気づき
そのときに心掛けたのが「楽に」ということです。身体が重いので、楽さを追求する必要があったわけです。すると、今までにない感覚で着地をさらに滑らかにすることができたのです。速度は落ちていますので、そのままレースを走れるわけではありません。速度を上げれば、楽さは当然に薄れていきます。しかし、持久走である以上、できるだけ楽さを追求することは、合理的な目標なのです。ここで、レースが近づくに連れ、「速く」走ることに拘り、「楽に」走ることを否定する(苦しさを肯定する)自分に改めて気が付きました。
レースで良いタイムを出したければ、苦しさを乗り越えなければなりません。これは真です。一方で、同じ速さでできるだけ楽に走ることができれば、苦しさ自体を減らすことができます。これも真です。
速く走ろうとし、苦しさに耐えるのは、勇者です。苦しさから逃げて、速く走ろうとしないのは、臆病者です。これが一般的な観念として普及していると思います。これを無批判に受け入れると、楽に走ろうとすること=苦しさから逃げること、と結びつけてしまうのです。
勇気ある退却と、選択肢の広がり
苦しさに挑むのは大変結構ですが、それだけでは超えられない壁が必ず現れます。このときに、一旦退くのは勇気の要ることです。それは、きっと一旦退いたら、その後、壁に挑むことができなくなることを恐れてのことだと思います。退くことは逃げることと同義ではありません。もちろん、客観的には似ています。一方で、自分自身の意志を見極め、怖くないから挑むのか、怖いから挑むのか、怖くないから退くのか、怖いから退くのか、を判定することが大事です。もし、怖いという思いから退くとしても、一旦、退くことで見えてくる可能性があります。挑み続けることで道が開けることもあるでしょう。個別具体的な状況下において、どの選択がその後にどう影響を与えるかは誰にもわかりません。わからないということを改めて認識した上で、いろいろな選択に対してオープンであることは重要だと思います。
一方で、わからないのだから、選択肢を閉ざすというのは危険です。状況が刻々と変わっていく中で、1つの選択肢のみが正しいということは、確率論的にあり得ないからです。多少のリソースを犠牲にしても、新しい選択肢の探索は継続する方が良いでしょう。逆に言うなら、自分の選択が目標の最短ルートの上にあると考えないことです。
新たなトレーニングの可能性
話を戻すと、長距離走のトレーニングにおいては、速く走ろうとするだけが選択肢ではないと言いたいのです。一旦、速さを捨てても、楽に走ろうとすることから見えてくるものは必ずあります。これは1つの例であり、ただ速く長く走るだけのゲームであっても、その練習方法は、多々あると思います。
マラソンを例に取り、より具体的に説明してみましょう。私は、フルマラソン42.195 kmを走り切ろうとしています。目標は3時間です。一方で、現時点の私の実力は、1キロ4分15秒で16 kmを走ったことがあるに過ぎません。ここから、1キロ4分00秒のペースを守って16 kmを走ることを自分に課したとしましょう。それで、20 kmを1キロ4分00秒で走れるようになれば良いのですが、そうならないことも十分に予測されます。今のまま、もう少しだけ速度を上げることはもちろん可能です。苦しくなることを前提として、頑張って走れば1キロ4分は十分に到達できるためです。頑張ることによって、16 kmくらいまでは1キロ4分で走れるかも知れませんが、そこから先、42 kmまでは頑張るだけで到達できそうにありません。これを頑張り続けるのではなく、1キロ4分30秒の速度においてフォームをさらに磨くという選択も検討すべきだということです。
メインの練習方法(速く走ろうとする)は決めつつも、何かのトラブルで、予定通りの練習ができないとき、今までにやったことのない練習をその場の柔軟な発想で行うのは、良い案だと思います。そのトラブルは未知の選択肢への扉だと思えば良いのです。