「動き」の天才になる!―筋トレ・ストレッチ以前の運動センスを高める方法
JIDAI 著
出典:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784814203017
評価
項目 | スコア |
---|---|
重力ランニングとの親和性 | ★★★★★ 5点 |
理論の完成度 | ★★★☆☆ 3点 |
読み物としての面白さ | ★★★★☆ 4点 |
感想・見解
まず、この本はランニングに関する本ではなく、身体の動かし方全般に関わる本です。
運動のセンスという言葉で説明される差異を明らかにしようとしています。まさにランニングに関する本ブログと同じ立ち位置です。身体の動かし方の質に違いがある場合に、これを解消することの難しさは、見た目ではわからないことにあると説きます。身体を部分に分けて見ていく、分析的アプローチを否定します。この第1章と第2章の主張については全面的に賛成です。
まず、動きの質に違いがあるという認識自体を持たなくてはなりません。特筆すべき指摘は、無意識において満足してしまった部分は改善されないという主張です。例えば、歩くという目的に対して、進むことができれば満足であると無意識にゴールが設定されていたら、とりあえず進むことができていれば、効率が悪くても、それが改善の対象から外れてしまうのです。
私の場合、サッカーにおいてこれと似た体験をしました。サッカーでは、2人のプレイヤーが向かい合ってボールをパスし合う練習があります。練習というよりも、サッカー好きの間で自然発生する行為と言って良いでしょう。通称、対面パスです。この対面パスを見ていれば、そのプレイヤーのレベルがわかります。ただ、ボールが相手に到着すれば、それで対面パスが「できる」と考えている人は、いくらボールを蹴っても、身体を鍛えても、実際の試合において効果的なプレーはできないのです。それは当然の道理です。単に相手にボールが到着するというレベルでは、敵プレイヤーが積極的に邪魔をしてくる環境において、攻撃的なパスを成功させることはできません。
つまり、課題がないと認識しているという課題を認識することが第一のステップなのです。そうすれば、自分の動きが全く洗練されていないことがわかります。何が悪いのかがわからなくても、それがわかれば、改善へ進むことができます。
次に、動きの質の差の原因として、著者は運動に関する情報量の違いを指摘しています。これは全くその通りです。第一のステップを超えた人は、自分の身体感覚にそれなりに注意すると思います。もちろん、一般人でも身体感覚はあるのですが、達人との違いは解像度とフレーム数だと言います。誰しも動画に映った物体自体には着目します。走っている人の頭からつま先まで収まっていれば、それで走りの全てを動画に収めたと思うかもしれません。しかし、達人は無意識に高い解像度とフレーム数で見ているのです。観ることの違いが先にあるのです。見えていることが実現できる可能性のあることです。見えていないものは実現できません。
自分の身体を動かすからと言って、自分の身体の動かし方に着目してはいけないのです。その前に、達人の身体の動かし方(感覚)に着目し、研究する必要があるのです。視覚に限らず、測定できるあらゆる方法を駆使して、達人の感覚を理解するのです。見えてくれば、それを改善しようと思うのが自然です。そして、意志があれば、少しずつ近づいていくことはできると思います。
しかし、各論に入ると説得力が激減します。質の違いを乗り越える方法は、やはり、イメージなのです。身体の内部の感覚について具体的な動きにしようと試みるけれども、やはり、受け取り手としてはイメージであるに過ぎません。例えば、身体の間に「すきま」を作る、と真面目に書いてあるのです。関節を増やすという言葉を使いながら、行きつく先は肩甲骨と骨盤を動かすことに落ち着いていきます。それは関節を増やしているのではなく、動いていない関節を動かすようにするだけです。それならばそうと率直に書いていただければ良いのですが、表現者の性なのでしょうか、特別感のある言葉を選びがちです。このような文章は、それを理解できない人の方に非があるかのような印象を与えます。わからなくても、わかったような振りをした方が良いのかなと感じてしまいます。
情報量を増やすというのは内面の話ですから、原理的に他人と共有できない事象です。つまり、どこまで行ってもわからないし、伝わらない、というのが現実に一致した記述です。この壁を崩すために、外の世界において測定可能な事象を基礎にして話をします。これが科学であり、物理です。物理現象として説明を尽くしたとしても、その物理現象を実現する身体感覚は人それぞれですから伝えようがありません。結局のところ、この本で伝えられることは、上記事実を改めて指摘することなのでしょう。それでもなお、その事実を認識することによって、自らの内面を省みることができるようになるのです。数ある運動のハウツー本とは一線を画した、哲学的な含蓄に富んだ本であると言えるでしょう。