哲学者が走る―人生の意味についてランニングが教えてくれたこと

出典:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784560083215

評価

項目スコア
重力ランニングとの親和性★★★★☆ 4点
理論の完成度★★☆☆☆ 2点
読み物としての面白さ★★★★☆ 4点

感想・見解

ランニングに関する本と言えば、その通りですが、これまで紹介してきた本とは全く趣向が異なります。一方で、哲学書として見ると、初心者向けと言えます。哲学書を初めて読む人でも、哲学の本質を感じつつ、現実世界に足を踏みしめたまま理解できる内容です。

著者は確かに哲学者であり、ランニングに関して思索を深めていきます。その論点は、「ランニングに内在する価値があるか否か」です。著者は、ランニングには内在的価値があると主張しています。

まず、内在的価値について説明します。たとえば、「なぜ走るのか?」と問われたとき、あなたが「健康に良いから」と答えるとしましょう。これは、健康を目的として、ランニングがその手段であることを示しています。このような、目的を達成するための手段としての価値を「道具的価値」と呼びます。著者は、現代社会が道具的価値の追求だけで構成されていると述べています。しかし、走ることがそれ自体に価値を持つとき、それは「内在的価値がある」と言います。

著者は少年時代、ただランニングを楽しんでいました。大人になるにつれて、飼い犬(狼)のストレス解消のために彼らと一緒に走る習慣を身につけます。これを、自宅の家具を守るための道具的価値としてランニングをしていると理解します。しかし、歳月が流れる中で、実は飼い犬と一緒に走ることが、目的に対して最も合理的な手段ではないことに気づきます。合理的な手段を選ばないのは、それ自体に目的があるからだと結論します。こうして、ランニングには内在的価値があるという結論に至るのです。

では、私自身がランニングに内在的価値があると考えているかと問われれば、私はないと考えます。ただし、ランニングをすると心が平静に近づくという効果があります。心の平静は、それ自体が目的であり、内在的価値を持つと私は思っています。

心の平静を目的とする行動と言えば、瞑想が挙げられます。瞑想とランニングは、まさに人間の行為のうち、静と動の極致とも言えますが、実は同じ目的に通じるものなのです。この点は、本書に限らず、ChiRunningのように複数のランニングに関する書籍で指摘されています。走りながら、自分の身体の感覚に集中していく過程は、まさに瞑想と同じです。しかし、ランニングであっても、他人との競争を目的としている場合、心には全く異なる影響を与えることになります。トレーニングの結果、速く長く走れるようになると、レースに出て良い記録を出したいと思うのは理解できますが、他人との比較は心の平静から遠ざかります。こうして心のバランスが崩れ、身体のバランスも崩れ、ケガを抱えるようになるのです。

私自身は現在、ランニング中に自分の走りを効率化することを考えています。自分の理論の検証をしているのです。道具的価値を求めて走っていると言って良いでしょう。主として足裏の感覚に集中していますが、背後に明確な目的があるため、心の平静を目的としているわけではありません。それでも、走ることによって結果的に心が平静に近づくのは間違いありません。これは、意識しているか否かに関わらず、誰もが感じていることではないでしょうか。ランニングによるリフレッシュやリラックス、あるいは健康増進という言葉で表現されるものは、その実体として、心の平静という内在的価値に支えられています。こうして、人は走り続けるのです。

「重力ランニング」が示すところは、無駄な筋力の発揮を全て取り去ることにあります。何かをするのではなく、何かをしないことを追求するのです。それは、雑念から自分を解放する取り組みとして、瞑想と非常に似たものです。走り自体のフォームについては一切言及していない本ですが、「重力ランニング」とは親和性が高い本だと感じました。

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